平成ウルトラマン考の、書きかけ。

ウルトラマンメビウスを見始める。
世の中には「ウルトラセブン信仰」というやっかいなムーブメントというか風潮というか、とりあえず「ハードなSFテイストのウルトラマンが見たい」という要求が、大きなお友達を中心に蔓延している。
これは非常にやっかいな足かせで「シリーズ物でありリメイクであり、しかし主な購買層はその時代時代の子供達である」というウルトラマンシリーズにおいて、制約であるとともに目標になっていた気がする。
俗に平成ウルトラマンと呼ばれるティガ、ダイナ、ガイアはぎりぎりのところで「大きなお友達のセブン信仰」と「今の子供達が見たがるであろうヒーロー像」のバランスをとろうと尽力してきたように思う。
そのバランスが崩れ始めたのが、コスモスやネクサスだ。

子供に限らず、我々がアクション映像を見るにあたって求めるのはカタルシスなのだが「怪獣だって生き物さ」というテーマを優先したせいでアクションムービーであることを放棄してしまったコスモス。(暴力事件もあったしね・・・げふんげふん)
ハードなSFドラマを追求するあまり、元々治外法権的な扱いだった「絶対的パワー」であるウルトラマンをもてあましてしまったネクサス。(姫矢さんの事もわすれないでね)

この2作はウルトラマンというシリーズが今後も生き残っていくために必要な足掻きを如実に現していて、一歩離れた視点で見ている大きなお友達には価値ある作品だが、物心つく時期に見せられた子供はちょっと可哀想かもしれない。

そして、いろいろ足掻いた挙句に出来上がったのが「ウルトラマンマックス」であると理解している。
最終回の後に放映された総集編を見ていて感じたのが「俺、結構怪獣覚えているな」という感想。

平成ウルトラマンが始まってから特に寂しく感じていたのが怪獣のキャラクターの弱さだったのだが、マックスに関しては(旧作のリメイク怪獣に限らず)出てきた怪獣がどれもこれも印象的で、怪獣を見るだけで登場回のエピソードがすんなりと頭に蘇ってきた。キャラが立っている怪獣が多くて演出も怪獣中心だったから、という分析ができるかもしれない。
しかし個人的にもっとも好意的に見られたのが、いい意味での「セブン信仰からの脱却」という点だった。
大きなお友達の視聴者をフォローする目的&ウルトラマン世代である製作スタッフの自己満足のために、至高であり目標であるウルトラセブンを模倣した「SFテイスト満載傾向」が、平成ウルトラマンのどの作品にも蔓延していたことは否定できないはずだ。
これが、ウルトラマンマックスからはすっぽりと抜け落ちていた。未来は光り輝いていて、ノスタルジアと希望は背反する事無く視聴者を包み込んでいた。

・・・・・・・・・んー、長くなってきたので、この先は後日追記予定・・・・・・・・・