名前もつけてやれなかったね

やっとあいた眼には、なにが見えたんだろうね。
おじさんのこと、見分けついてたかなあ?


おじさんはね、ここに引っ越してきて、まだ半年なんだ。
知り合いなんて奥さん以外誰もいないし、先月までは仕事もなかった。
毎日車でフラフラ出歩いては、ゲーセンなんかで一日過ごしてた。

君のお母さんと知り合ったのは、そんなある日だったよ。
汚い猫が縁側に座っててね、すごい声で鳴いてた。
手を伸ばすとさっと逃げて、どっかに行っちゃった。

でもうちの縁側が好きみたいで、それから何度も見かけるようになったんだ。


おじさんの奥さんが「縁側猫に餌をやってみよう」と言い出したのは、それから2ヶ月くらい経ってからかな。
屋根裏をネズミが走るから、猫に居着いてもらおうよ、という話だったんだ。


よく見かける縁側に、ちょっとだけカリカリを置いてみた。
食べてるみたいで、無くなってた。
そんな日が数日続いて、奥さんは「今日は猫来た?」っておじさんに聞くのが日課になった。
でもさ、おじさんはいつも奥さんが出かけた後はゲーセンに行っちゃってたから
「気づかなかったなあ。餌は無くなってたけど」って答えるのが、おじさんの日課
奥さんには内緒だよ。


そんなある日、再び君のお母さんとバッタリ出くわして。
そっと手を伸ばしたら、スリスリとしてくれたんだよ。餌泥棒じゃなくて、なついてくれたんだ、って嬉しかった。
それから毎日見かけるようになって、なつきっぷりもどんどん加速して、毎朝餌を食べに来るようになったんだ。
おじさんの日課は「朝奥さんを送り出したら、猫さんに餌をやって、膝に乗せてブラシしてやること」に変わったよ。
ゲーセンに行くことも少なくなった。君のお母さんに給餌しなくちゃならないし。


たぶん君の命は、その頃お母さんのお腹の中に芽生えてたんだね。
妊娠した猫は急に甘えるようになったりするらしいからね。
それに君のお母さんは、餌をやりだしてからお腹がだんだん大きくなってきたし。


おじさんの奥さんは「子供がいるんじゃない?お腹大きいよ」って言ってたけど、ごめんね、おじさんは最初信じてなかった。
だって君のお母さん、ホントに汚くてガリガリで、それに歯だって相当悪くなってて「年寄猫でござい」って感じだったから。「ネズミを遠ざけるために猫を釣ったのに、こんな貧相な猫が釣れちゃった」なんて笑い話をしてたくらいだから。
まさか君がお腹にいるなんて、思ってなかった。ごめんね。


5月の半ばくらいから、君のお母さんは室内飼いの猫になったんだよ。
お腹はいよいよ大きくなって、おじさんも妊娠を認めざるを得なくなって、うちは奥さんと二人暮らしの割には広いから、君のお母さんには、使っていない2階に住んでもらったんだ。


6月に入って獣医さんに看てもらった時「ああ、いるね。あと10日もしないで生まれてくるかもしれない」って診断だった。
正直「どうしよう」って気持ちだった。
ごめんね。
おじさんはやっと仕事が決まって、もうじき出社しなきゃならない時期だったし、何匹も子猫が生まれたらどうしようもない状態だったんだ。里親探すにしても、探す時間がとれないかも、なんて思ってた。


でも君はなかなか生まれてこなかったね。
獣医さんの診断なんてあてにならないくらいお母さんのお腹の中に居続けて。
出社の日が迫ってたから「もう生まれてこいよ」なんて言いながら、君のお母さんのお腹を毎日なでてたよ。
君のお母さんは、日に日に甘えん坊になって。毎日おじさんの後を追って歩いてた。


君が生まれた日、おじさんは会社に行ってた。
君がこの世に誕生した姿を、見てやれなかった。今となっては、とても心残りだよ。
君のお母さんに破水の兆候があったのを見つけたのはおじさんだったんだけど、おじさんは会社に行かなきゃならなかったんだ。


帰ってきたら、君がいた。
小さな体を一生懸命じたばたして、お母さんのおっぱいにすがってたね。
とても小さくて、まだ濡れてて、でも命の叫びをおじさんは感じた。
まだ全然猫の形をしてなくて、まだ全然可愛くなくて、でもおじさんは嬉しかった。


どうして生まれてきたのは、君だけだったんだろう?
猫は沢山の兄弟と生まれてくるって言うじゃない。だからおじさんは「里親探し、どうしよう?」って思ってたんだよ?
君だけだったから、飼ってもいいかな?って思っちゃったんだ。おじさんも、奥さんも。


毎日大きくなったね。
頭も手もお腹も脚も、見る見る大きくなっていったね。
毎日見るのが楽しみだったよ。
お母さんと同じ柄で、でもちょっとお母さんより色が濃くて、毛もふわふわになって。


雄雌がわかってから名前をつけようねって奥さんと話してたんだ。
雄だってわかったのはすぐだったけど、名前、決められなかった。
おじさんは勝手に変な呼び名をつけてたけど、もちろんあんな名前にするつもりはなかったよ。
奥さんと、ちゃんと決めようと思ってた。


君のお母さんは野良生活が長かったせいかな、おじさんたちがつけた名前では返事をしてくれないんだ。
大きくなった君はきっと返事をしてくれる、そんな事を考えてたんだよ。
おじさんは、楽しみにしてたんだよ。


やっとあいた眼で、おじさんの事、見てくれてたかなあ?
やっとあいた君の眼に、この世界はどんな風に、見えてたかなあ?
君の精一杯伸ばした手に、おじさんが触れた事、感じてくれたかなあ?
君の声、可愛かった。まだニャーニャーじゃなくて、キューキューって声。おじさんは、忘れない。
まだヘチャッと寝てた君の耳、忘れない。まだ黒目ばっかりだった君の眼、忘れない。まだへそが見えてた君のお腹、わすれない。まだ爪楊枝よりも細かった君の爪、忘れない。ちょっとだけ前脚の方が発育良かった事、忘れない。まだピンク色だった君の鼻、口、肉球、忘れない。


でもね、君のすべてを眼に焼き付けるほど、君を見ていないんだよ!おじさんは!
きっと時間が経つと、君の姿を忘れていっちゃうんだよ、おじさんは。
悲しみは時間が解決するかもしれないけど、それってきっと、君の事を忘れてしまう事にもなるんだよね。


名前もない君に、おじさんはなにもしてやれなかった。
ごめんね。


ゆうべおじさんは、君のお母さんに餌をやっただけで、君の事を見てやれなかった。
朝もバタバタしてて、お母さんのトイレの始末と餌やりだけで、出かけてしまった。
君がこの世にいた最後を、おじさんは知らないんだ。
おじさんが出かける時君の体は、確かにお母さんの寝床にあったね。
あの時君の命はそこにあったんだろうか?
おじさんはそれすらわかっていないんだ。あの時君が動いていたかどうか、記憶にないんだ。
動いていなかったかもしれない。


名前もない君に、おじさんはなにもしてやれなかった。
名前すら、つけてやれなかった、ごめんね。
ごめんね。


おじさんはね、このblogに、くだらない買い物日記みたいな事を書いてるんだ。
こないだ、podcastの「bonchicast」のちんさんに影響されて、MacBook買っちゃった。
でもね。
今、君の事、そのMacBookで書いてるんだよ。


初めて書く文章が、君との思い出なんて。
おじさんは、もっともっと君の事、この新しいパソコンで書きたかったんだ。


ごめんね。
なにもしてやれなかった。